生のアノミーと政治のアノミー [にっき]
久しぶりに再開してみます。
政治のことは、ふだんあまり書かないのですが、きょう、自民党の総裁選挙が
あったみたいなので・・。
むかしは、政治的対立というと、思想とか、体制・反体制の対立だったのですが、
さいきんはもっとシビアな対立が出てきています。
貧富の格差は昔からとしても、長幼・男女など、かつては、
結婚や家族といった制度によって包摂されていた概念が対立してしまいました。
「思想」(=あたまのなかのもの)の対立から、
血縁・長幼・生活など、人間の生そのものが、互いに対立する状況へと
変化してきています。
かつて、歴史的にはありえなかった、おそろしい状態です。
これは、利害調整をしたり、選択をかけることによって、
従来の政治が、解決できる限度を、はるかにこえています。
しかし、上述しましたような、現代人の「生物学的」無秩序状態から、
現代の政治は、出発しなければなりません。
これを、政治的に解決しようとしてはなりません。、
できないのですから、「そこ」から出発せざるをえないのです。
「それ」は、ポジティブに捉える以外、ないのだと思います。
つづく・・・かもしれません。
おととことば(←これはゆうめいなほんとおなじなまえです)そのいち [にっき]
ことばとおんがくは、いつもはなかよく、
いっしょにいられることが、とてもおおいです。
うたを、うたうでしょう?
そのときが、そうだとおもいます。
でも、じつは、ことばとおんがくは、ときどき、
いっしょにいられないことが、あるのです。
いいえ、そうではなく、ことばとおんがくが、
いっしょにいてはいけない、そういうときが、
あるのです。
わたしも、ずいぶんむかしは、そのことがよくわかりませんでした。
ただ、おんがくならば、それでよい、そうおもっていました。
うまくいえないのですが、たとえば、えほんをよんだあと、えほんをとじますね。
そうすれば、えほんのなかのことばは、えほんのなかに
ぜんぶはいってしまって、みんな、みえなくなります。
でも、おんがくは、もともと、めでみることができません。
どこかからきこえてきたり、いつのまにかおわってしまったり、
そんなふうにして、わたしたちのこころのなかへ、
じゆうきままにでたり、はいったりして、すきかってにふるまう、そういう
めにみえない、やっかいなものを、おとなはおんがくとよんで、
それをたのしんでいるのですが、もしかすると、じぶんのこころやからだを、
やっかいものの、おんがくのじゆうに、すきなままにさせて、おとなは、
へんないみで、よろこんでいるのかもしれませんね。
でも、あるときから、わたしは、そういう、おんがくが、
とてもこわくなりました。
〜つづく〜
えほんのそと [こども]
いちまいのえほんのうしろで、あたしはちいさくなって、
みえないこどもの、いっこの、なまめいたこえとあしあとをきいている
じぶんのほかの、じぶんのほかのみんなぜんぶに、
みひとつでこびている、それらのおとをきくと、あたしは、
みえないこどもの、みえないこころのなかをみんなみてしまうようで、
だから、そのこのこころに、みえないあたしのこえもつうじればいいな、とおもいながら、
みえないえほんのなかで、すこしだけごめんねとおもってみた
よろこびなさい、というこえがします [こども]
うんとね、あかちゃんできるたびにね、あかちゃんからね、
こころのなかりょうじょくされてくみたいで、
なれるはずもないえたいのしれないおとなに、あかちゃんからねえ、
いやいやじぶんがねつぞうさせられてくみたいで、
それでも、あかちゃんにりょうじょくされたぼくをみて、
なにもわからず、あかちゃんはわらうだろうし、
そのあかちゃんを、またまたりょうじょくしかえしながら、
ぼくもわらっていなくちゃならないし、
このあいだもぼくはれすとらんで、そうやってりょうじょくしあいっこに
つかれたようすの、のうめんのようなははおやをみたけれど、
あかちゃんがあかちゃんであることよりも、
おやがおやであるのにつかれるってへんだなーとおもったけど、
あかちゃんにりょうじょくされてるぶんざいで、
そんなふうにおとなのことをかんがえるのは、たぶんとても
ぼくはごうまんなんだろうし、
それに、ほんとうにひどくなると、おやだけじゃなくて、
あかちゃんが、じぶんがあかちゃんであることにつかれてしまうらしい
そうやって、ほんとにみひとつで、このせかいをりょうじょくしようという
いしとよくぼうをだれからもみとめられなかった、そんなあかちゃんたちが、
あるとくしゅなしせつのなかで、たくさんの、こおったままのかんじょうの、
ひょうほんとなってみつかった、というにゅーすがあったきのう、みじかに、
あかちゃんがうまれました






